第43回サバイバル・フェミニズム―読書会をしよう
日時:10月5日(日)お昼12時〜5時くらい
場所:プロジェクトQボックス(ホームページ地図参照)
参加費:200円(場所代カンパ)
参加の制限はありません。当日飛び入り大歓迎!
次回テキスト:
『女性の解放』(1869年/J.S.ミル著、大内兵衛・大内節子訳/岩波文庫600円+税)より
第2章
『三○億の倒錯者―ルシェルシュ十二号より』(1992年/***著、フェリクス・ガタリ協力、市田良彦編訳/インパクト出版会1845円+税)より
「尻に憑かれし者たち……***著」第4節、第5節(36〜61ページ)
主催:生と性はなんでもありよ!の会 プロジェクトQ
連絡先:E‐mail=dokusyo@projectq.info 電話=090-3842-8759
ホームページ http://projectq.info/dokusyo/
《参加者よりのお誘いメッセージ》
私は簡単に生きる事ができない
女である事、自分と他の人の好みが違う事
その為、周囲と上手くコミュニケーションが出来ない事が多々ある
嫌な事は嫌だけれど、他の人と対立したり、嫌ったりしたいわけではない
ましてや自分の存在を知らしめたいのではない
もっと仲良くなりたい
もっとうまく言葉を使い、コミュニケーションを取り、楽しく生きていきたい
他の人と楽しく充実した人生を生きていきたい
だからこの会に参加した。
もっと楽に一緒に生きていけるように
(こもり)
巷では、オリンピックの話題でいっぱい。ニュースを見たくてテレビを着けたら、柔
道で金メダルを取った選手がインタビューで
「妻と子供が見ていた中、男として頑張っている姿を見せたかった云々・・・」(言
い方少し違うかも。)
金メダルだし、実に感動的なシーンとしてどんどんメディアは取り上げる。繰り返し
繰り返しこのコメントが流れるのを
想像してテレビを消した。
これが「世間」の強さ。矛盾のない人らが悪いわけではないのだ。仕方ない、仕方な
い・・・。
感情的な部分での気持のけりが少しずつついていく。
怒りやいらいらが、治まってくる。(今は他のことで気分を紛らわせているっていう
のもあるけど。)
次に見えてくるのは何だろう。
ではまた読書会にて。
(モリ)
幼いころ、フルタイムで働く母に聞いた。「なんで、お母さんは働くの?」母は答えた。「経済的に自立したいから」
そのやり取りはずっと私の耳に残り、胸に刻まれている。母は、自らをフェミニストとみなしたことはなかったが、私に大きな影響を与えてきた。
成人してから、この思い出話をすると、母は「若かったからや」と笑っていた。
母のこの言葉を本当に理解する年になった。なぜ、母がそんな言葉を放ったか。
J.S.ミルは、女性の働く権利を求めた。それは素朴な功利主義にもみえる。「働け、されば自由だ」というグロテスクなスローガンは、今の私には説得力を持つ。この社会では、賃金を得るものが力を持ち、そうでないものは下位とみなされる。
それ自体を否定する気はない。私の生活は資本主義に支えられ、恩恵を十分に浴びている。私は豊かな生活をしている。
だが、自由ではない。みえない力と力の均衡状態に緊張し、みえない敵に怯えている。息苦しく、「解放してくれ」と叫びそうになる。
働けば、いいのか。お金が欲しい。自由になりたい。私の中の、その二つの欲望が重なり合いながらも、反発しあっている。
(オリカ)
「みんな」が居る。「みんな」が「私たちの代表」のスポーツを応援している。「私たち日本人」にも「鍛えられた肉体の美」にも同化できない人たちが隣りに住んでいることを忘れさせてくれる。異物のない単純な社会はとても楽だ。あぁ、こんなにもファシズムは心地よい。
戦争の祭典だ。不平等極まりない国家同士の旗を背負ってスポーツする姿に無邪気に感動できるものか。一方では現在進行形で抑圧し、搾取している国の旗が対等にスタートラインに並ぶなんて幻想、子どもだましもいいところ。
忘れてはならない。チベットで何が起きているかを。日本が中国を軍事で経済で侵略してきたことを。ジャマイカの貧困の原因を作っている星条旗を。
オリンピックが何だっていうの?と言いにくいこの雰囲気はなんだろう。
女/男、結婚してるかどうか、それが何だっていうの?と言いにくい雰囲気にそっくりだ。「自明」のことを指摘して対話するのはなんてむずかしいことなんだろう。
オリンピックなら閉会式を待てば良い。自明の不平等システムも毎日のセクハラも貧困も戦争も閉会式の予定が無い。窒息しないで生きのびよう。閉会式の予定をくり返し計画しよう。
近代の完成がまだ遠い。自由の二文字は理想ですらない。やりたい放題の誤ったポストモダンの時代に近代をもう一回やり直してみませんか。
「旧弊を改め慣習を破りて、かの男らの迷ひの夢を打ち破りたまへや」(岸田俊子)
日本の近代の夜明け、明治のスローガンはまだ新しい。
(やかびゆうこ)
第42回サバイバル・フェミニズム―読書会をしよう
日時:8月10日(日)お昼12時〜5時くらい
場所:プロジェクトQボックス(ホームページ地図参照)
参加費:200円(場所代カンパ)
参加の制限はありません。当日飛び入り大歓迎!
次回テキスト:
『女性の解放』(1869年/J.S.ミル著、大内兵衛・大内節子訳/岩波文庫600円+税)より
第1章
『三○億の倒錯者―ルシェルシュ十二号より』(1992年/***著、フェリクス・ガタリ協力、市田良彦編訳/インパクト出版会1845円+税)より
「尻に憑かれし者たち……***著」第2節、第3節(22〜35ページ)
主催:生と性はなんでもありよ!の会 プロジェクトQ
連絡先:E‐mail=dokusyo@projectq.info 電話=090-3842-8759
ホームページ http://projectq.info/dokusyo/
《参加者よりのお誘いメッセージ》
「あなたはいいよね」と思ってしまう。
あなたには特権がある、私にはないものを、私が決して持てないものを持っている、と思ってしまう。
卑屈な自分は嫌いだ。
卑屈な自分は醜い。
卑屈な自分は苦しい、悲しい。
上を向いて前を向いて生きていくために、今私がすべきことは何だろう。
(コマツバラヒロミ)
先日こんなことがあった。ある労働組合のセクハラ学習会でのこと。司会者が企画の趣旨を説明する中に、「この世には男と女しか居ないわけで…」というフレーズが。学習会そのものは盛況で、現場からの相談や報告も多数出てきました。そんな中で深刻な状況から質問や意見表明する当事者の時間を奪ってしまうかもしれないと悩みつつも、ほっておくわけにもいかず、所属組合で取り組んだ差別解雇事件の件なども取り混ぜつつ、この世は男と女しか居ないわけではなく、多様な性がある事、そして女性を対象とするセクシャルハラスメントと同じように、あるいはもっと厳しい形で、典型的な性とされない人(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー・インターセックスなど)に対するハラスメントがおきていることを確認した。当の司会者も会場の参加者も、素直にそのくだりに問題があったという認識に至ったので、あまり険悪な雰囲気にはならなかったが、改めて「常識」の強大さを思い知らされる体験だった。
「常識」には多くの人がどっぷりと使っている。私も差別解雇事件や読書会にかかわっていなかったら、どの程度の認識だったかははなはだ怪しい。しかも、これは相対的なものに過ぎないのであって、まだまだ私も「常識」に毒されていると考えていたほうが無難だろう。つくづく読書会は貴重な「非常識」空間だ。 運動は続く。それらが「普通」の人を巻き込み続ける限り(そうじゃなきゃいかんのだが)、「常識」との付き合いも続く。自分や他人の「常識」との付き合いも続く。自分や他人の「常識」と時にけんかし、茶化し、向きをずらし、やがて「常識」そのものを置き換えることを妄想しつつ、人生は続く。
(南)
「連続幼女誘拐殺害事件」の宮崎勤さんが処刑された。セクシュアリティを社会運動のテーマとして扱うすべての人にとって大きな出来事だ。
「性倒錯者」とは誰か。宮崎勤さんが有罪だったとして、「私たちは宮崎勤とは違う」のか。
性の自由を求める、と言葉にすれば簡単だが私たちは自由のために何をする用意があるだろう。
かつて私たちの社会でも同性愛者であることは弾圧の対象だった。というより性的な自由は誰にもなかった。セックスは力の行使でしかなく、だから「男根」支配が可能だった。すべての人間が性的な奴隷だったのかもしれない。
家父長制に基づく民法上正しいとされる唯一の関係以外の性を語ることは、暴力支配でないセックスのあり方を提唱することだった。力のコントロールを考え続ける取り組みのスタートだった。自由のために、私たちの欲望を肯定し、規範の強制に抵抗することだった。
さて、問う。クィアであることを誇り常に暴力的な存在である私たちは本当に「宮崎勤とは違う」のか。
『30億の倒錯者』を読むことは私の喜びであり、試練である。
8月が来る。
死刑執行/判決に「またか」と馴れていくことを恐怖しよう。次は自分かと恐怖している死刑囚がこの瞬間生きていることを忘れてはならない。
地球温暖化を名目に「クリーンな代替エネルギー」としてサミットが原発を推し進める意思表示をした。ヒロシマナガサキを、チェルノブイリを忘れてはならない。その恐怖と犠牲を決して忘れてはならない。
8月が来る。
犠牲を容認し、死を美化し、事実から逃避する、私たちの「心の靖国」をもう一度全否定する。
(やかびゆうこ)
性的な暴力の「サバイバー」の自助グループ“あっかんべぇ!”7月例会は17日木曜日です。場所・時間など詳細は
akanbe@projectQ.info
までお問い合わせください。
“あっかんべぇ!”は性的な暴力の「サバイバー」自身で運営する自助グループです。「サバイバー」以外の方の参加はお断りしています。自分が性的な暴力の「サバイバー」だと思う方ならどなたでもご参加いただけます。性別・性指向は問いません。
性的な暴力の「サバイバー」の自助グループ“あっかんべぇ!”6月例会は19日木曜日です。場所・時間など詳細は
akanbe@projectQ.info
までお問い合わせください。
“あっかんべぇ!”は性的な暴力の「サバイバー」自身で運営する自助グループです。「サバイバー」以外の方の参加はお断りしています。自分が性的な暴力の「サバイバー」だと思う方ならどなたでもご参加いただけます。性別・性指向は問いません。
第41回サバイバル・フェミニズム―読書会をしよう
日時:6月22日(日)お昼12時〜5時くらい
場所:プロジェクトQボックス(ホームページ地図参照)
参加費:200円(場所代カンパ)
参加の制限はありません。当日飛び入り大歓迎!
次回テキスト:
『女性の解放』(J.S.ミル著、大内兵衛・大内節子訳、岩波文庫、原著1869年出版)より「編者序説(スタントン・コイト)」(7〜34ページ)
『三○億の倒錯者―ルシェルシュ十二号より』(***著、フェリクス・ガタリ協力、市田良彦編訳、インパクト出版会、原著1992年出版)より「尻に憑かれし者たち……***著」第1節、第2節(7〜28ページ)
主催:生と性はなんでもありよ!の会 プロジェクトQ
連絡先:E‐mail=dokusyo@projectq.info 電話=090-3842-8759
ホームページ http://projectq.info/dokusyo/
《参加者よりのお誘いメッセージ》
帰り道、頭の中はとてもにぎやかでした。とにかく刺激が強かった。誰か隣りにいる人に、思いつくこと全部、そのまま話してしまいたかった。
その「場」にいる人の、みんなの言葉、言葉に表れないもの、思いにならない思いが渦になって交わされ、流れ、飛びかい、私の中にも入って、何か大きな流れになっていました。私にとって初めての読書会は、そんな動的でパワフルな場でした。
とにかく、けっこうな刺激になりました。いい意味で…。
(まりい)
言葉にできなければ、死んでしまいそうな気さえする―――だが、それを語る言葉はどこにも無い。だから私たちは、いつも<他の誰か>の言葉の中に、自分の中の
を語ってくれる何かを探し求める。言葉は言葉に取り憑き、語りきれないことや、語るに足りないことを、ぽろぽろと取りこぼしながら…引きずりながら、いつだって何ごとかを語ろうとして、私たちはそれを転がして来た。
言葉は常に足りない。だがこの他、もない。
語り始めるとき、その皮膚一枚下には絶望が張り付いている。さあ、これでいよいよ自分が語るしかなくなった、他の誰の言葉も決して私について語ってはくれない、という。脅かされるように語り始める者の言葉は、だから常におぼつかなく、脈絡が無いし、無様だ。時には意味をなさないつぶやきや、悲鳴や、沈黙のようなものですら、あるかも知れない。―だから簡単に消えてしまう、誰かが耳を傾けてくれるのでなければ。
残念ながら、そうした耳を持てる人は多くない。
たくさんの、たくさんの声が消えてしまった(多分)。けれど、常に、生き延びるわずかな声はあった。ひとつ、またひとつ、と生き延びたかすかな声はあって、それらの希有な力強さが、また別の声を生かした。きっと。
だからこそ、わたしは今、あきらめるまいと思うことが出来る。どうにかして、どうにかして、しゃべらなければ、黙るもんかと。
どうしてわたしは、何度も何度も、殺されるような気がして来たのか。『女じゃない』とか、『女のくせに』とか『女なんて』と言われる度に。それは絶対に不当なのに、果たして何が不当なのか語る言葉をわたしは持たなかった。
…痛い思いをする度に、わたしは口ごもり、真っ赤になって、あーとかうーとか言い、そうでなければ感じているのとは全然違うことを言った(言うはめになった)。わたしは風変わりで、怒りっぽく、ちょっとおかしなやつだと思われた(ような気がする)。自分でも意外だけれど、一番こたえたのは『そんなことは考えなくても良い』と言われることだった。そう言われることはわたしを解放しなかった。
『考えなくても良い』って?……じゃあ、あたしのこのイタイオモイはどこへ行ったら良い??だからわたしは相変わらずあーとかうーとか言い続け、とんちんかんな場面で怒り続けて来た。爆発してしまう度に、少しずつ遠巻きにされた。わたしはイタいオンナになっていった。なりたくもなかったのに。
今、わたしは相変わらず、何かある度にあーとかうーとかいい、素っ頓狂な怒り方をしたり、いきなり泣いたり、突拍子も無いことをしでかしては、そのイタさに自分で傷付いている。わたしは相変わらずイタいオンナだ。<普通>に紛れて落ち着くことも出来やしない。でもわたしは思う。わたしをイタいと思う奴ら、わたしに痛い思いをさせたのが自分だなんて想像もしない奴ら、そしてわたしをイタいと思うわたし自身……、どうぞナメてなさいよ。あんたらわたしを殺したら、自分を殺すことになるのよ、と。
わたしはなんとか喋ろうとしている。あーとかうーとか以外の、自分の言葉を探そうとしている。…引き受けるには、あまりにしんどいし、なんでわたしが、と思わないでも無いけれど、じたばたするのは、わたしは誰にも殺されたくないし、殺したくもないからだ。
一方でこうも思う。同情なんかいらない、と。
お情けであなた方のグループの端に座らせてくれなくてけっこう、わたしにとっては愉快なことなんか無かったあなた方のゲームの、ルールを教えてなんかくれなくて結構、とも。『女にしてやる』とか、『女の子にしてあげる』とか、そんな言葉はどこからやってくるんだろう。あなた方はわたしに、わたし自身の何を教えてくれるって言うんだろう。……わたしは、わたしに自分たちのルールを教えようとするあなた方に、どうやって、そのイタさを気付かせて痛み入らせるかってことばかり(笑)考えているというのに。
どうかどうか、痛みに気付いて(わたしの/あなたの)。
そのあとに初めて、私たちは出会うことが出来るだろう。
わたしは何も教わりたくなんかない。ただ話がしたい。
あなたと話がしたい。互いの声に耳を傾けながら、いくつもの声が、殺し合うことなく語り合う術をこそ学びたい。
(ウメハラ アヤカ)
今回初めて読書会に参加しました。
参加者のお話が、自分の身から出ている言葉で話すので、理解するのが遅い私もどうにか(>_<)・・・。また、上っ面だけじゃない話が久しぶりだったので次回も参加したいです。(次回は発表が当たってました、参加します(^∀^)ノ)
バカずきんちゃん
(石井沙織)
不覚にも、しゃくりあげて泣いてしまった。なんで泣いているのかその理由がまたよくわからない。
それほど傷ついているわけではない(はず)。だけれど、感情の堰が切れた感じで、泣きやむのに時間がかかってしまった。
言葉もなくエンエンと泣く私のそばにいてくれた友人に感謝。
毎日過ごす中で、いやなこと・不快なことがたくさんあるけれど、力関係、言うことによって被るかもしれない不利益など
いろいろ考えて、言えなくなってしまう。そういう構造が本当に怖いし、自分を追いつめて感情的になってしまう。
冷静になってきちんと相手に言葉で伝えなければと思う。反面で、自分も不快だと思う言葉を使っている自分に気づく。
この矛盾にどう向き合ったらいいのか。
年を1つ1つ重ねることで昔なら気にも留めなかった(きっと誰かが傷ついてたかもしれない)ことや言葉が気になる。
年のせいなのか?読書会の功名か?
読書会(の雑談?)で、自分の矛盾を言葉にしたり、不快なことの対応策を考えていきたいと思うのでこれからもみなさん
よろしくお願いします。
(モリ)
最近混乱する時がある。いったい今は何時代だ? 21世紀だと思っていたのは私の勘違いか?
前世紀にフェミニズムは言った、「個人的なことは政治的なこと」と。
その言葉はあなたに、
怒りに燃えこぶしを振り上げ正義を叫ぶあなたに、
届いているか?
"Say Hello to Mr.Justice."/ミスター・ジャスティスによろしく。
[Cocco "Rose letter" より]
(コマツバラヒロミ)
女であることで嫌な思いをいっぱいしてきた。恨んで憎んで、「女なんかに生まれてきたくなかった」と言ってきた。でも、そうやって呪詛を吐くことも含めて、私は女であることがけっこう楽しい。女やってて良かった。I
want to play the woman.それが私にとって、ジェンダーでの遊ぶことなんだと思う。
(オリカ)
流産する。痛みとむなしさを知り圧倒的な身体違和の苦しみを知る。そして、大したことと大したことない、ことを知る。
死刑執行と死刑判決が「やむを得ない」とくり返し支持される。特別な「異常者」だけが悪魔なのだ、と。絞首台に上がる人を決められる「私たち」はそんなに正しいのか。
貧しいこと、老いること、典型的でないこと、生きにくいことのすべてを私たち自身の選択だ、責任だとまで言われるこの社会で、あなたは正気で居られていますか?私たちは首吊り台に居る。殺し、殺されている。
首吊り台を否定しよう。私たちすべての存在は生きる権利があると言おう。私たちはみな倒錯者だ、変態だ、キズモノだ、そして私たちは本当の秩序と正義を求めている、と歌おう。
国際反ホモフォビアデーに心を集めよう。私たちの内なる(ホモ)フォビアと闘い、典型的でないすべての者たちへの攻撃と否定を絶対に許さないと誓いを立てよう。
己を愛するため、世界を信じ世界に認めさせる闘いは私たちをつないでいる。
差別、暴力、死刑、原発、基地、戦争。得をしているのは誰だ?戦争屋を喜ばせるな。ヤツらを通すな。
(やかびゆうこ)
第40回サバイバル・フェミニズム―読書会をしよう
日時:5月4日(日)お昼12時〜5時くらい
場所:プロジェクトQボックス(ホームページ地図参照)
参加費:200円(場所代カンパ)
参加の制限はありません。当日飛び入り大歓迎!
次回テキスト:
『隠されたジェンダー』(ケイト・ボーンスタイン著 筒井真樹子訳 2007年 新水社)
『いのちの女たちへーとり乱しウーマン・リブ論』(田中美津著 1972年初版 河出書房文庫またはパンドラ単行本)
*今回は『隠されたジェンダー』をメインで採り上げます。
主催:生と性はなんでもありよ!の会 プロジェクトQ
連絡先:E‐mail=dokusyo@projectq.info 電話=090-3842-8759
ホームページ http://projectq.info/dokusyo/
《参加者よりのお誘いメッセージ》
黙らせられてる思いもある。
記憶を辿るだけでも怖い。
まして、相手と「向き合う」ことなんてできやせん
言葉にすることは大切だなんて思いつつ、「向き合う」ことができない自分、乗り越えられない自分はあかんなと思ってた。
でも、区切りをつける、置いておく「向き合う」もありかもしれないと思った。
まだまだ未熟な私は、「許し」の境地にはたどりつけないし、一生無理かもしれないが、「許す」ことのすごさと魅力はすごく感じた。
それができたら生きやすくなる気がするな。
毎日でなくていい
思いを言葉にしていく
読書会に参加することで、言葉を丁寧に紡いでいけたらいい
(茨)
男と女は違うのか、ということを考えてきた。TGやISの問題を考えていくと、男と女は区別できないことがわかってくる。だが、それは男と女が同じであることとは違う。(グラデーションでもない)
というようなことを、諸事情で自分に閉じ籠り、他人から隔離された生活で考えていた。私は社会的な側面とは、また別にこういうことを考えるのが好きなんだと思う。
なので、最近、私は連帯欲求が低いのですが、こういう人も参加できる読書会です。熱い気持ちがなくても、来たらいいよ!
(オリカ)
感情はやっかいだ。
時に感情は私を生かし、時には私を食い殺す。
来月もまた私は読書会へと向かう。
感情に溺れて腐敗しないために。
胸を張り背筋を伸ばし、誇りを持って生きていくために。
(コマツバラヒロミ)
告発するとき、その言葉は鋭い。踏みにじられた側がその尊厳を奪還しようとするのだから、容赦ない。
告発の言葉は強い。それは痛みを伴いつつ、爽快でもある。力を獲得することでもあるからだ。
自分はどの位置でなぜその告発をするのか、が曖昧になるとき私たちは安易な気持ちで「告発する側」に立ってしまう。
沖縄を見る視線。絶対的な敵視が可能な「米軍」から絶対的な弱者と言い換えが容易な「少女」に暴力があったというとき、沖縄にあらゆる負を押しつけて止まない日本に暮らす私たちはどのような告発ができるのだろうか。たとえば沖縄のセックスワーカーは日本人の金持ちを客に毎日沖縄の経済を支えている。そこには構造的に、現実的に多くの暴力が存在している。「少女を守れ!」の悲痛な爽快感が見えなくさせるものをこそ、見なくてはならない。今、何を、どう、告発すべきなのか。
告発の行方を見届けよう。願った世界を実現するために、自分の尊厳をとり戻すために、告発を続けよう。そして、ときどき私の告発の相手は私自身だ。
(やかびゆうこ)
性的な暴力の「サバイバー」の自助グループ“あっかんべぇ!”4月例会は24日木曜日です。場所・時間など詳細は
akanbe@projectQ.info
までお問い合わせください。
“あっかんべぇ!”は性的な暴力の「サバイバー」自身で運営する自助グループです。「サバイバー」以外の方の参加はお断りしています。自分が性的な暴力の「サバイバー」だと思う方ならどなたでもご参加いただけます。性別・性指向は問いません。
第39回サバイバル・フェミニズム―読書会をしよう
日時:3月23日(日)お昼12時〜5時くらい
場所:プロジェクトQボックス(ホームページ地図参照)
参加費:200円(場所代カンパ)
参加の制限はありません。当日飛び入り大歓迎!
次回テキスト:
『隠されたジェンダー』(ケイト・ボーンスタイン著 筒井真樹子訳 2007年 新水社)
『いのちの女たちへーとり乱しウーマン・リブ論』(田中美津著 1972年初版 河出書房文庫またはパンドラ単行本)
主催:生と性はなんでもありよ!の会 プロジェクトQ
連絡先:E‐mail=dokusyo@projectq.info 電話=090-3842-8759
ホームページ http://projectq.info/dokusyo/
《参加者よりのお誘いメッセージ》
いつも、「ちいさなこと」なんだろう、誰もがやってしまうのは。
いつも、「ちいさなこと」なんだろう、私たちが生きにくくなってしまうのは。
(勇人)
読書会に参加するということ 男に生まれ、男として育ち、目下のところは男であり続けている労働組合員の私として
私がこの読書会に参加することになったのは所属する労働組合に持ち込まれた1件の労働争議がきっかけでした。その争議は性同一性障害の女性(生物学上の性は男性で、女性として生きているという意味です、念のため。いわゆるMtFトランスジェンダーですが、本人の名乗りを尊重した表記にしています。)が職場で暴言を受けたり、差別的な対応をされた挙句に雇い止めを受けたという事件でした。労働争議の現場には性差別の影響がある事案は少なくなく(というか賃金差別など社会全般に蔓延している現象ですが)、それまでも女性に対する差別的な取り扱いが問題に含まれる事案は経験してきました。しかし、彼女のようなセクシャル・マイノリティ差別にまつわる事案は初めての経験でした。私達は広範な支援を獲得するために当事者団体など各方面に接触しました。そんな中で私はこの読書会に出会ったのでした。
私が参加を始めたとき、読書会は「セックスチェンジズ トランスジェンダーの政治学」(パトリック・カリフィア著)をはじめようとしていたときでした。それまで私は「性同一性障害」「トランスジェンダー」「トランスセクシャル」をめぐってろくに認識できていない状態でした。接触してきた情報は、テレビなどで垂れ流される差別的な言説だけ。大学在学中に、フェミニズムや男性学の言説にごく軽く接触していたおかげで、それが性差別である程度は認識できていましたが、それはきわめて観念的なものでした。そのためこの本との出会いはかなり強烈な体験となりました。それは10代の終わりに自立生活障害者(家族に頼らず、自分で自分の介護をする人間を探し、自分の意志で生活する障害者のこと。生活費を自活する障害者という意味ではない。)たちに出会ったとき以来の世界観が広がる体験でした。
「男であること」はそれがマジョリティであるがゆえに、意識しないで済ますことが可能なことです。事実、私も大学で男性学に出会うまでは「男らしさ」を言語化できないまま内面化してきました。今もなお、「男らしさ」から自由になれているわけではありませんが、少なくともそれをめぐる問題の認識と、それに基づく行動の修正など日々実践しているところです。私の周りの人間関係は比較的「男らしさ」「女らしさ」を自明としない人々がまだしも多いほうですが、それでもこれを主要な話題とする集団は居ないので、読書会は私の認識を修正する貴重な機会となっています。
ところで私は労働組合に所属していると書きましたが、こと性差別の問題をめぐって、この労働組合という存在はいいイメージが少ないように思います。実際大多数の労働組合は会社の労務管理の一端を担う御用組合だったり、正社員(ほとんどが男性)しか加入できない会社別組合だったりして、女性やセクシャルマイノリティの訴えを聞かなかったり、逆に会社と結託して性差別を働くというひどい事例も残念ながら聞きます。わたしたちの労働組合は「一人でも、誰でも入れる労働組合」というキャッチフレーズのいわゆるコミュニティ・ユニオンです。これは旧来の労働組合が大企業・正社員中心で、中小企業や非正規の労働者(その多くは女性)を置き去りにしてきたことの反省に立つ労働組合でした。そのような経緯があるので女性中心で組織されている労働組合もあります。だから、がんばっていますと自信を持って言えれば良いのですが、残念ながらここでも労働組合運動のよくない伝統である「男性中心社会」を引きずっています。私の知っているコミュニティ・ユニオンで「女はお茶くみ」などといった露骨な性差別はさすがに現在はめったに聞きませんが、それでも組合執行部が圧倒的に男性で構成されています(私の所属組合もです)。「いかにすれば女性役員が増えるか」と男共が鳩首してうなるとなれば、それはもはや喜劇的とすら言えるでしょう。そこには家庭責任の不公正な配分などの問題も見ることができます。また、労働者の権利を守ることが目的であるにもかかわらず、とても残念なことにセクシャルハラスメントもおきます。本当はこれらの問題に自立的に取り組まなければならないのですが、そのためのリソースは人的にも情報的にも不足しているのが現状です。こうして労働組合員としての私にとっても読書会は貴重なものとなっているのです。
冒頭に紹介した事件は1年を越えた闘いを経て昨年末勝利的な形で和解しました。しかし、私はこれからも当分は読書会詣でを続けるでしょう。次回から扱うのはケイト・ボーンスタインの「隠されたジェンダー」と田中美津の「いのちのおんなたちへ」の読み比べです。他者と自分への新しい出会いに期待して。
(南)
私が、自分が女だと知ったのは、暴力を受けたときだ。体をおさえつけられたとき。「女はいらない」と言われたとき。それまで無自覚に女であった私は、いやというほど女であることを思い知らされた。女のからだを呪い、傷つけ、憎んだ。それから、たくさんのことがあり、私はまだ生きていて、このからだを使っている。
だからといって、私は女と呼ばれるからだを持って生まれた人たちが、女と呼ばれるからだでなくなることに、抵抗はなかった。それは、私がやさしいからでも、寛容だからでもない。単に無関心だったからだ。私にとって、自分が暴力によって傷つけられたことは特別であり、そのほかの人たちのからだなど、どうでもよかった。ましてや、男と呼ばれるからだを持つ人や、どちらでもない人のことなど、欠片も考えなかった。もっと、言えば、私は他人のからだの話など聞きたくなかった。
私たちは、生まれてくるときに自分のからだを選べない。私はからだのことを考えるときに、いつも、そのことに打ちのめされる。けれど、問題はからだが選べないことなのだろうか?そこから、私は出発することにする。
「あなたはトランスジェンダーか?」と聞かれたときの答えは、NOである。「あなたはジェンダーに基づくからだの二分化に賛成か?」と聞かれたときの答えも、NOである。そして、「あなたはジェンダーに基づくからだの二分化を拒絶できているか?」と聞かれたときの答えも、残念ながらNOである。私は、ジェンダーに縛られ、生まれたときに持ってきたからだからも、なにからも解放されていない。自分のからだを憎まずにいることすら、難しい。それでも、もう、自分のからだも、他人のからだも、見ないふりはできないし、したくない。言いたいことはたくさんあるし、現実的にはもっとカッコ悪いけれど、勇ましい決意表明だけはしておきます。
(オリカ)
典型的ではないあり方は、人を動揺させる。不安にさせる。
自分たちが正しいと信じてきたことや必死で守ってきたものを、否定され破壊されるように感じるからだろう。
無視、排斥、感情的な攻撃に晒されることもある。隔離収容され「治療」され、そして「抹殺」されることも。
それでもやはり、典型的でないあり方は豊かさへとつながっているはずだ。
豊かで美しい、未来へと。
(コマツバラヒロミ)
FtFである私を生きる
「女」であることの苦しさも楽しみも、幼いころから味わってきた。「女」であることを意識し続けて、生きてきた。「女」であることは罪にも武器にもなった。私はずっと「女」である自分をうまく扱えなかった。
七転八倒して、今、私は「女」であることを引き受けたいと思っている。私のふるまいや感覚はどこまでも「自己決定」のみにはならず、絶えず他者の視線とステレオタイプを内面化し続ける。「女」であることはそんな私の一部であり、本当はどうでもいいことであり、しかし重大な問題の、ひとつ。
読書会という試みを通じて、私は力を得てきた。私の「本音」はどれも偽物だったのかもしれない。痛い、つらい、かわいそうなばかりの私の「本音」。本当はもっとズルかったのに。
冷静な議論は私たちを追いつめ、解放する。私たちは元気になれる強さが欲しい。自己批判と自己肯定とを繰り返し、着実に世界を変革していくことにつながるような。
私たちは、あきらめない。
(やかびゆうこ)
性的な暴力の「サバイバー」の自助グループ“あっかんべぇ!”3月例会は13日木曜日です。場所・時間など詳細は
akanbe@projectQ.info
までお問い合わせください。
“あっかんべぇ!”は性的な暴力の「サバイバー」自身で運営する自助グループです。「サバイバー」以外の方の参加はお断りしています。自分が性的な暴力の「サバイバー」だと思う方ならどなたでもご参加いただけます。性別・性指向一切不問です。

プロジェクトQのボックスの地図はここにあります!

